エロゲーの歴史(後編)
2004年10月5日こないだ(10/1)の続き。今日の話はもうそこらじゅうでし尽くされてる気もします。少なくとも俺の中では高校の時からずーっと考え続けてきたことの確認に過ぎないです。陳腐な論に終始することも予想されるけど、まあ暇なんだよね、俺も。エロゲー大好きなんだ。
そもそもなぜ我々はアダルトゲームをするのか。考えるまでも無くアダルトコンテンツは巷に溢れてる。エロ本は中学生でも買えるし、ビデオを見たっていい。金があるなら風俗にでも行きなさいよ。でも我々はアダルトゲームを買う。何故か。それはエロゲーそのもののあり方の遍歴と関わる問題なのかもね。
要するに15年前のエロゲーはお父さん達にとって風俗の変形バージョンでしかなかった、と推理する。それはあくまでオナニーであり、シモの処理に過ぎない。乱暴に言ってしまえばオナホと一緒。Hシーンへの到達に条件を付けることで興奮を煽っているだけのものだったんじゃなかろうか。
しかし時は流れてメインユーザーも若年化してきた昨今、エロゲーは風俗からより「ケ」の世界へ進出を果たした。言ってしまえば現実に女の子と出会って話して恋をしてHすることの代わりをしてくれるようになってしまった。確かに好きなときに会えるし、気が乗らなきゃ起動しなきゃいいんだし、責任が無いってところが楽でいいよね。
話は飛ぶけど、Hビデオに女優のインタビューやら自己紹介やらイメージ映像があるじゃない。あれってぶっちゃけ飛ばしてる人が多いと思うんだ。俺も大抵そうしてたし。ただね、自分が可愛いと思った娘の奴は見とくといいかも。本番の盛り上がりが全然違ってくるから。
Hビデオって、ジャンルで選んだり女優で選んだり色々な評価基準があると思うんだけど、少なくともジャンルで選んでる人は見たことがある女優の名前、言えるんだろうか。俺は言えない。これってちょっと異常だと思わない?目の前のテレビにあられもない姿で腰振ってる女の人が映ってるのに、俺はその人の趣味や出身はおろか名前さえ知らないんだぜ?
相手と知り合い、知るうちに好きになって、もっと知りたいと思うから相手の最も深くて見え難い所を見る(Hする)ってのが正当な流れだと主張する気はないし、「したいからするんだよ、なめんなDOTEI」って言われると困るし、実際はいくつかの儀礼を済ませた上でのひとつの到達点としての行為に過ぎないのかもしれないけど、やっぱり知らない相手の痴態を見るのはなんだかなあって考えてる自分がいる。
所謂風俗に行くのに二の足踏んでるのも金銭的な問題やプライドの問題以上に「相手を知らない」ことが要因になってるのかもね。
だからエロビデオでも女優のこと知ってると安心する。妄想も全然知らない人よりクラスのアイドル使った方が楽だし、よりリアルだから細部に凝れるじゃない。
話が逸れた。
戻そう。じゃあどうしてエロゲーに「恋愛」やらが絡んでくるかって言うと、要するにヒロインのことをもっとユーザーに知って欲しいからなんだ。多くのエロゲーに於いてHが最終目標に設定されているのもそれがゲームとしての目的、アイデンティティであると言う前に、色々な情報を見せてユーザーにヒロインを理解してもらい、あわよくばヒロインの物語を一緒に追体験してくれた方が顧客満足の観点に於いても有益だから、だと思う。
実際に、ひとつ下の学年の知らない女の子に告白されてもただ困惑するだけだけど、同じ委員会で活動してきた仲間なら納得がいくじゃない。前者の場合は「告白」と言う行為を受諾するための情報がこちら側に於いて足りない、と言うことになるんだろう。まあ、こんなことに拘ってるから勝てないんだけど。
さて。そんなわけでHに至る過程としてヒロインを知り、主に恋愛を通して様々な経験を共にしていくゲームが台頭してきました。そして業界はもう一段階発展と言うか、尖る方向に向かいます。それがkeyの存在なんですな。ってところまで先回書いたよね。ようやく追いついた。
keyの前身であるtacticsは「Moon.」の時点でかなりキテるメーカーだって雰囲気は出てた。人物の内面世界に描写の重点を置くことで独特の雰囲気を持つゲームに仕上がってた(この路線はケロQの「終の空」や近いところだと「沙耶の唄」に通じると思う)。で、tacticsが次に出したのがONE〜輝く季節へ〜な訳で。ヒロインに障害者がいることで有名なこのゲームでも主人公の内面の「永遠」と向き合い、ヒロインとそれを乗り越えていくって言う難解なストーリーだったわけですよ。ぶっちゃけ俺なんか理解できてねーし。
ただ、ここで大事なのはそれぞれのヒロインにとって主人公は「かけがえの無い存在」であり、主人公にとってのヒロインもそうだ、と言うこと。お互いに代替不可。あなたしか見えない、あなたしか要らない状態な訳ですよ。この相互依存がユーザーに「俺がいなくちゃ」と言う奇妙な自負と優越感を植え付ける。自分とヒロイン以外誰もしたことの無い体験をゲームの主人公とヒロインは乗り越えていく。もうこれは恋愛に限らず、様々な状況があるわけですね。その特殊な経験の中で「あなただけ見つめてる」になるんです。だから本人はものすごく入れ込んでるけど、傍観者にはその気持ちが理解できない。これが俗に「葉鍵キモイ」と言わしめるんではないかと。
メーカーがkeyに変わるとヒロインの死や運命論、ファンタジーな要素などありとあらゆる手段を使って「僕だけの君」シチュエーションを作り上げる。そこにあるのは立ち入り禁止の二人の世界。バカップルなんてもんじゃないわけですよ。こうしてアダルトゲームは主人公とヒロインに(主にお互いの内面における)過酷な試練を与え、それを乗り越えていくことで通常の恋愛過程の代わりとする、と言う新しいテンプレートを得たんよ。「君が望む永遠」なんかもこれで括れるよね。
アダルトゲーム業界をざっと俯瞰してみたけど、今がどういう状態かってのはその渦中では分からないもので、数年経ってみて「ああ、あの頃はこんな流れでこういうものが流行ってたんだな」ってのが分かるかも。
文字数は約2600ですか。苦しいところもあるけど、ほぼ言いたい事は言い尽くした。満足です。長すぎて読む気にならねー、って人は「エロゲー最高!」とでも思ってくれれば概ね正解。
そもそもなぜ我々はアダルトゲームをするのか。考えるまでも無くアダルトコンテンツは巷に溢れてる。エロ本は中学生でも買えるし、ビデオを見たっていい。金があるなら風俗にでも行きなさいよ。でも我々はアダルトゲームを買う。何故か。それはエロゲーそのもののあり方の遍歴と関わる問題なのかもね。
要するに15年前のエロゲーはお父さん達にとって風俗の変形バージョンでしかなかった、と推理する。それはあくまでオナニーであり、シモの処理に過ぎない。乱暴に言ってしまえばオナホと一緒。Hシーンへの到達に条件を付けることで興奮を煽っているだけのものだったんじゃなかろうか。
しかし時は流れてメインユーザーも若年化してきた昨今、エロゲーは風俗からより「ケ」の世界へ進出を果たした。言ってしまえば現実に女の子と出会って話して恋をしてHすることの代わりをしてくれるようになってしまった。確かに好きなときに会えるし、気が乗らなきゃ起動しなきゃいいんだし、責任が無いってところが楽でいいよね。
話は飛ぶけど、Hビデオに女優のインタビューやら自己紹介やらイメージ映像があるじゃない。あれってぶっちゃけ飛ばしてる人が多いと思うんだ。俺も大抵そうしてたし。ただね、自分が可愛いと思った娘の奴は見とくといいかも。本番の盛り上がりが全然違ってくるから。
Hビデオって、ジャンルで選んだり女優で選んだり色々な評価基準があると思うんだけど、少なくともジャンルで選んでる人は見たことがある女優の名前、言えるんだろうか。俺は言えない。これってちょっと異常だと思わない?目の前のテレビにあられもない姿で腰振ってる女の人が映ってるのに、俺はその人の趣味や出身はおろか名前さえ知らないんだぜ?
相手と知り合い、知るうちに好きになって、もっと知りたいと思うから相手の最も深くて見え難い所を見る(Hする)ってのが正当な流れだと主張する気はないし、「したいからするんだよ、なめんなDOTEI」って言われると困るし、実際はいくつかの儀礼を済ませた上でのひとつの到達点としての行為に過ぎないのかもしれないけど、やっぱり知らない相手の痴態を見るのはなんだかなあって考えてる自分がいる。
所謂風俗に行くのに二の足踏んでるのも金銭的な問題やプライドの問題以上に「相手を知らない」ことが要因になってるのかもね。
だからエロビデオでも女優のこと知ってると安心する。妄想も全然知らない人よりクラスのアイドル使った方が楽だし、よりリアルだから細部に凝れるじゃない。
話が逸れた。
戻そう。じゃあどうしてエロゲーに「恋愛」やらが絡んでくるかって言うと、要するにヒロインのことをもっとユーザーに知って欲しいからなんだ。多くのエロゲーに於いてHが最終目標に設定されているのもそれがゲームとしての目的、アイデンティティであると言う前に、色々な情報を見せてユーザーにヒロインを理解してもらい、あわよくばヒロインの物語を一緒に追体験してくれた方が顧客満足の観点に於いても有益だから、だと思う。
実際に、ひとつ下の学年の知らない女の子に告白されてもただ困惑するだけだけど、同じ委員会で活動してきた仲間なら納得がいくじゃない。前者の場合は「告白」と言う行為を受諾するための情報がこちら側に於いて足りない、と言うことになるんだろう。まあ、こんなことに拘ってるから勝てないんだけど。
さて。そんなわけでHに至る過程としてヒロインを知り、主に恋愛を通して様々な経験を共にしていくゲームが台頭してきました。そして業界はもう一段階発展と言うか、尖る方向に向かいます。それがkeyの存在なんですな。ってところまで先回書いたよね。ようやく追いついた。
keyの前身であるtacticsは「Moon.」の時点でかなりキテるメーカーだって雰囲気は出てた。人物の内面世界に描写の重点を置くことで独特の雰囲気を持つゲームに仕上がってた(この路線はケロQの「終の空」や近いところだと「沙耶の唄」に通じると思う)。で、tacticsが次に出したのがONE〜輝く季節へ〜な訳で。ヒロインに障害者がいることで有名なこのゲームでも主人公の内面の「永遠」と向き合い、ヒロインとそれを乗り越えていくって言う難解なストーリーだったわけですよ。ぶっちゃけ俺なんか理解できてねーし。
ただ、ここで大事なのはそれぞれのヒロインにとって主人公は「かけがえの無い存在」であり、主人公にとってのヒロインもそうだ、と言うこと。お互いに代替不可。あなたしか見えない、あなたしか要らない状態な訳ですよ。この相互依存がユーザーに「俺がいなくちゃ」と言う奇妙な自負と優越感を植え付ける。自分とヒロイン以外誰もしたことの無い体験をゲームの主人公とヒロインは乗り越えていく。もうこれは恋愛に限らず、様々な状況があるわけですね。その特殊な経験の中で「あなただけ見つめてる」になるんです。だから本人はものすごく入れ込んでるけど、傍観者にはその気持ちが理解できない。これが俗に「葉鍵キモイ」と言わしめるんではないかと。
メーカーがkeyに変わるとヒロインの死や運命論、ファンタジーな要素などありとあらゆる手段を使って「僕だけの君」シチュエーションを作り上げる。そこにあるのは立ち入り禁止の二人の世界。バカップルなんてもんじゃないわけですよ。こうしてアダルトゲームは主人公とヒロインに(主にお互いの内面における)過酷な試練を与え、それを乗り越えていくことで通常の恋愛過程の代わりとする、と言う新しいテンプレートを得たんよ。「君が望む永遠」なんかもこれで括れるよね。
アダルトゲーム業界をざっと俯瞰してみたけど、今がどういう状態かってのはその渦中では分からないもので、数年経ってみて「ああ、あの頃はこんな流れでこういうものが流行ってたんだな」ってのが分かるかも。
文字数は約2600ですか。苦しいところもあるけど、ほぼ言いたい事は言い尽くした。満足です。長すぎて読む気にならねー、って人は「エロゲー最高!」とでも思ってくれれば概ね正解。
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