気付くとエロゲーのことしか書いてない
2006年10月14日 ゲーム
「イリュージョンてメーカーのゲームは凄いよね」
「アダルトゲームやったこと無いけどやってみたいなあ」
「体験版ダウンロードしてみたけどたいしたもんだね」
執拗な釣りに耐え切れずcoming out.まだ鍛錬が足らんね。
…………………………………………
戦国ランス、買う気は無かったんだけど北条・南条にニヤニヤ。この二人のイベントだけは見たいな。関係ないけど絶対に直江がランスに篭絡されて、補給がうまくいかなくなった所で謙信が虜になると思うんだ。
…………………………………………
例えばさ。FF10-2と初期のwizはゲームの本質において明確な差があると思うんだ。ポリゴンだとか3Dだとか以外に、ゲームにおける主人公のパーソナリティが決まっているか否かと言う点で。
10-2はあくまでもユウナが主人公で、プレイヤーはユウナの冒険を追体験する。wizは主人公の属性から名前から能力から自分で決めて、その「分身」を冒険させる。
だからFF10-2は「他主体験」型でありwizは「自主体験」型である―ここまではまあ言い古されてると思う。エロゲーにも同じようなことが言えるんじゃないかな。およそゲームである以上、主人公がプレイヤーの分身なのか別人格なのかはついて回る区別だけど、「はい」「いいえ」しか喋らないドラクエ主人公よりも多くのアクションをこちらの意思に関わらず行うADVの主人公でも、プレイヤーの分身たり得る要素は残されている。
代表的なものとして
1.眼
2.(設定や物語に深く関わる)過去
3.名前
4.特記すべきパーソナリティ
などが考えられる。
エロゲーの男に眼を描くかどうかというのは難しい問題で、古いゲームはその殆どが不自然なほどの前髪の長さによって、あるいはCGにおけるアングルの工夫によって目を隠してきた。これは画竜点睛の故事を引くまでも無く、眼を描かないことによってプレイヤーのゲーム主人公への思い入れ・シンクロを促す効果を期待してのこと。
インターハートなどは眼を描かないことを誠実に守ってるけど、最近は主人公のパーソナリティの特化(後述)が進むことで「主人公も作中の人物の一人である」と言う感覚が一般化してきているのか、瞳を描かれる―もっと言えば主体的にCGに関わってくる―主人公が増えたのも事実だ。
個人的には眼とか関係ないから、感情移入を妨げる要因はその素晴らしすぎる立ち居振る舞いと背格好だと言う事実にメーカーは気付いて欲しいデヴね。
またゲームが進む中で、主人公の過去の体験を前提として話が進むことも最近は多くなってきた。昔のいわゆる恋愛ゲームは出会い→発展→終結の流れが一般的だったのに対し、(出会い)→再会→発展→終結のパターンや(事件)→導入→発展→終結のパターンが増えてきている。前者の例としては同級生とか、後者はkanonなんかそうでしょ。主人公が子供の頃にであった女の子の話を10年以上経った後でされても知らんがな。これは話に深みを持たせる代わりに共有できない過去を持つプレイヤーと主人公の乖離を進める結果になりやすい。
名前が決まっているかどうかも人によっては大きなファクターだ。音声入りのゲームがなかった時代は主人公の名前は(シリーズものやよほど物語性に重きを置かない限り)変更できるのが当然だった。問題は音声が付くことで、会話の一貫性を保つために自由な名前が邪魔になること。
例えば「○○○(主人公の名前)はどう思う?」と言う台詞があるとする。主人公の名前が変更可能な場合、大抵のゲームは名前の部分を無視して「―どう思う?」と発音される。気が利いたゲームだと「君はどう思う?」のように的確な言葉を補う場合もあるがこれはあくまでも苦し紛れ。「○○○!」のように主人公の名前を呼ぶシーンなどにはまったく適用できない。それならはじめから名前を固定してしまえと言うのが最近(でもないが)の流れであるように思う。
そうなると名前のパターンをえらい数録音して真っ向からこの問題に取り組んだバーチャコール3は偉かったなあ。わりと最近だと人工少女2とかも。
主人公の持つ特記すべきパーソナリティは、主人公の過去と同じくプレイヤーと主人公の違いを際立たせる。前はキャラ紹介で「中肉中背。運動も成績も平凡、容姿も際立ったところのないどこにでもいる青年」みたいな紹介をされる主人公ばっかりだった。運動が得意だとか頭がいいとか、そのあたりが増えてきたのは90年代後半で、2000年になるともっと特異な能力を秘めた主人公が量産される(このあたりはラノベの普及との関係を疑ってしまうけど、今みたいに爆発的に流行った時期はもう2〜3年後だと思うのでここでは触れない)。
例としては月姫とかFateとか。こうなるとその特性を軸にして主人公は一人立ちを始める。わざわざ特性を付けるということは物語上のキー・ファクターとなることが多く、それらのシーンでは能力を持たないプレイヤーは否応なく傍観者にならざるを得ないからだ。
以上の4点(あるいはより多くのこと)の組み合わせで主人公は決まる。主人公をプレイヤー寄りにするか物語寄りにするかはスタッフの考え方次第だけど、以上の点を踏まえて過去のエロゲーに出てた主人公を眺めると少し面白い。
相沢祐一(Kanon)
国崎往人(Air)
浩之ちゃん(To Heart)
ハクオロ(うたわれるもの)
カイト(ぱすてるチャイム-恋のスキルアップ-あつめて!恋の経験値♪)
ランス(ランスシリーズ)
鳴海孝之(君が望む永遠)
白銀武(マブラヴ)
遠野志貴(月姫)
衛宮士郎(Fate-stay night-)
例えば相沢祐一名前も変えられるし別に特別な能力を持ってるわけじゃないし、眼も描かれない。しかし過去は持っている。KanonもAirも過去からの繋がりを重視した劇場型(この用語の規定やってないね)のゲームであることを考えると、主人公の設定が中途半端だと思ったのか、次回作ではより個性的になって(立ち絵まで用意されて)国崎住人という主人公が生まれている。
ハクオロは文字通り主人公であり、物語の最重要人物である以上名前を変えることは出来ない。過去の設定やハクオロと言う名前に込められた意味などを考慮すると名前変更など出来ようはずもないし、プレイヤーは完全に主人公を眺める側としてゲームに取り組む必要がある。
カイトは名前付き、立ち絵・CGともにガンガン絡んでくるタイプの主人公が多いアリスソフトのゲームの中では珍しく顔がシルエットかつ名前も変更できる。舞台はファンタジー世界だが主人公は特別でない平凡な学生なのでこの設定は理に適ったものだと思う。
アージュの二人は主人公理論の好例だ。君望の時点では名前も変えられるし集合写真のCGでさえ「前髪隠し」をしていた孝之は、マブラヴの武になると公式HPで堂々と素顔を晒している。これはまだお話が一般的だった君望に対してマブラヴ(特にオルタネイティヴ)では設定を読まないと着いていけない世界になったことが原因だと思う。主人公はプレイヤーの分身から舞台俳優になった。
type-moonの二人はどちらも特異な能力を秘めているが、志貴の方は本編では顔が描かれなかった(プラスディスクが初出の筈だけど、違うかも)が、自社のカラーがプレイヤーの自己投影を求めていない事に気付いてか、士郎は顔出しも多めである。
メーカーは自分たちの作る作品に合わせた主人公設定を行って欲しい。適当な、あるいは中途半端な決め方はユーザーにも作品の評価にもいい影響がないと思う。
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これだけ長文を書いて何を言いたかったかというと、瑠璃色で俺が矢車さんの如く「お前はいいよなァ……」と嫉妬に苦しめられているのは取りも直さず主人公が顔見せしてない点にあると信じるから。台詞の前にキャラの顔グラが出る仕様なのに主人公の達哉だけは顔グラ無し。そのくせ名前も変更できないしヒロインは俺を無視して「達哉」にご執心だし。「達哉はプレイヤーとは別の存在ですよ」というメッセージをもっとしっかり発信してくれればロミオとジュリエットを読む感覚でゲームが出来たのにね。
ところでフィーナを追いかけるシーンで『Technical Power』を流してしまう俺は多分ロートルなんですよね。分かった人もきっとロートル、あるいは葉信者。
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しかしまあ用語の規定も主観の排除もせずに「いわゆる」を多用してる時点で上記の主張は場末の飲み屋で酔っ払いが管巻いてるのと同じレベルだよなあとは思う。便利だよ「いわゆる」。
「アダルトゲームやったこと無いけどやってみたいなあ」
「体験版ダウンロードしてみたけどたいしたもんだね」
執拗な釣りに耐え切れずcoming out.まだ鍛錬が足らんね。
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戦国ランス、買う気は無かったんだけど北条・南条にニヤニヤ。この二人のイベントだけは見たいな。関係ないけど絶対に直江がランスに篭絡されて、補給がうまくいかなくなった所で謙信が虜になると思うんだ。
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例えばさ。FF10-2と初期のwizはゲームの本質において明確な差があると思うんだ。ポリゴンだとか3Dだとか以外に、ゲームにおける主人公のパーソナリティが決まっているか否かと言う点で。
10-2はあくまでもユウナが主人公で、プレイヤーはユウナの冒険を追体験する。wizは主人公の属性から名前から能力から自分で決めて、その「分身」を冒険させる。
だからFF10-2は「他主体験」型でありwizは「自主体験」型である―ここまではまあ言い古されてると思う。エロゲーにも同じようなことが言えるんじゃないかな。およそゲームである以上、主人公がプレイヤーの分身なのか別人格なのかはついて回る区別だけど、「はい」「いいえ」しか喋らないドラクエ主人公よりも多くのアクションをこちらの意思に関わらず行うADVの主人公でも、プレイヤーの分身たり得る要素は残されている。
代表的なものとして
1.眼
2.(設定や物語に深く関わる)過去
3.名前
4.特記すべきパーソナリティ
などが考えられる。
エロゲーの男に眼を描くかどうかというのは難しい問題で、古いゲームはその殆どが不自然なほどの前髪の長さによって、あるいはCGにおけるアングルの工夫によって目を隠してきた。これは画竜点睛の故事を引くまでも無く、眼を描かないことによってプレイヤーのゲーム主人公への思い入れ・シンクロを促す効果を期待してのこと。
インターハートなどは眼を描かないことを誠実に守ってるけど、最近は主人公のパーソナリティの特化(後述)が進むことで「主人公も作中の人物の一人である」と言う感覚が一般化してきているのか、瞳を描かれる―もっと言えば主体的にCGに関わってくる―主人公が増えたのも事実だ。
個人的には眼とか関係ないから、感情移入を妨げる要因はその素晴らしすぎる立ち居振る舞いと背格好だと言う事実にメーカーは気付いて欲しいデヴね。
またゲームが進む中で、主人公の過去の体験を前提として話が進むことも最近は多くなってきた。昔のいわゆる恋愛ゲームは出会い→発展→終結の流れが一般的だったのに対し、(出会い)→再会→発展→終結のパターンや(事件)→導入→発展→終結のパターンが増えてきている。前者の例としては同級生とか、後者はkanonなんかそうでしょ。主人公が子供の頃にであった女の子の話を10年以上経った後でされても知らんがな。これは話に深みを持たせる代わりに共有できない過去を持つプレイヤーと主人公の乖離を進める結果になりやすい。
名前が決まっているかどうかも人によっては大きなファクターだ。音声入りのゲームがなかった時代は主人公の名前は(シリーズものやよほど物語性に重きを置かない限り)変更できるのが当然だった。問題は音声が付くことで、会話の一貫性を保つために自由な名前が邪魔になること。
例えば「○○○(主人公の名前)はどう思う?」と言う台詞があるとする。主人公の名前が変更可能な場合、大抵のゲームは名前の部分を無視して「―どう思う?」と発音される。気が利いたゲームだと「君はどう思う?」のように的確な言葉を補う場合もあるがこれはあくまでも苦し紛れ。「○○○!」のように主人公の名前を呼ぶシーンなどにはまったく適用できない。それならはじめから名前を固定してしまえと言うのが最近(でもないが)の流れであるように思う。
そうなると名前のパターンをえらい数録音して真っ向からこの問題に取り組んだバーチャコール3は偉かったなあ。わりと最近だと人工少女2とかも。
主人公の持つ特記すべきパーソナリティは、主人公の過去と同じくプレイヤーと主人公の違いを際立たせる。前はキャラ紹介で「中肉中背。運動も成績も平凡、容姿も際立ったところのないどこにでもいる青年」みたいな紹介をされる主人公ばっかりだった。運動が得意だとか頭がいいとか、そのあたりが増えてきたのは90年代後半で、2000年になるともっと特異な能力を秘めた主人公が量産される(このあたりはラノベの普及との関係を疑ってしまうけど、今みたいに爆発的に流行った時期はもう2〜3年後だと思うのでここでは触れない)。
例としては月姫とかFateとか。こうなるとその特性を軸にして主人公は一人立ちを始める。わざわざ特性を付けるということは物語上のキー・ファクターとなることが多く、それらのシーンでは能力を持たないプレイヤーは否応なく傍観者にならざるを得ないからだ。
以上の4点(あるいはより多くのこと)の組み合わせで主人公は決まる。主人公をプレイヤー寄りにするか物語寄りにするかはスタッフの考え方次第だけど、以上の点を踏まえて過去のエロゲーに出てた主人公を眺めると少し面白い。
相沢祐一(Kanon)
国崎往人(Air)
浩之ちゃん(To Heart)
ハクオロ(うたわれるもの)
カイト(ぱすてるチャイム-恋のスキルアップ-あつめて!恋の経験値♪)
ランス(ランスシリーズ)
鳴海孝之(君が望む永遠)
白銀武(マブラヴ)
遠野志貴(月姫)
衛宮士郎(Fate-stay night-)
例えば相沢祐一名前も変えられるし別に特別な能力を持ってるわけじゃないし、眼も描かれない。しかし過去は持っている。KanonもAirも過去からの繋がりを重視した劇場型(この用語の規定やってないね)のゲームであることを考えると、主人公の設定が中途半端だと思ったのか、次回作ではより個性的になって(立ち絵まで用意されて)国崎住人という主人公が生まれている。
ハクオロは文字通り主人公であり、物語の最重要人物である以上名前を変えることは出来ない。過去の設定やハクオロと言う名前に込められた意味などを考慮すると名前変更など出来ようはずもないし、プレイヤーは完全に主人公を眺める側としてゲームに取り組む必要がある。
カイトは名前付き、立ち絵・CGともにガンガン絡んでくるタイプの主人公が多いアリスソフトのゲームの中では珍しく顔がシルエットかつ名前も変更できる。舞台はファンタジー世界だが主人公は特別でない平凡な学生なのでこの設定は理に適ったものだと思う。
アージュの二人は主人公理論の好例だ。君望の時点では名前も変えられるし集合写真のCGでさえ「前髪隠し」をしていた孝之は、マブラヴの武になると公式HPで堂々と素顔を晒している。これはまだお話が一般的だった君望に対してマブラヴ(特にオルタネイティヴ)では設定を読まないと着いていけない世界になったことが原因だと思う。主人公はプレイヤーの分身から舞台俳優になった。
type-moonの二人はどちらも特異な能力を秘めているが、志貴の方は本編では顔が描かれなかった(プラスディスクが初出の筈だけど、違うかも)が、自社のカラーがプレイヤーの自己投影を求めていない事に気付いてか、士郎は顔出しも多めである。
メーカーは自分たちの作る作品に合わせた主人公設定を行って欲しい。適当な、あるいは中途半端な決め方はユーザーにも作品の評価にもいい影響がないと思う。
…………………………………………
これだけ長文を書いて何を言いたかったかというと、瑠璃色で俺が矢車さんの如く「お前はいいよなァ……」と嫉妬に苦しめられているのは取りも直さず主人公が顔見せしてない点にあると信じるから。台詞の前にキャラの顔グラが出る仕様なのに主人公の達哉だけは顔グラ無し。そのくせ名前も変更できないしヒロインは俺を無視して「達哉」にご執心だし。「達哉はプレイヤーとは別の存在ですよ」というメッセージをもっとしっかり発信してくれればロミオとジュリエットを読む感覚でゲームが出来たのにね。
ところでフィーナを追いかけるシーンで『Technical Power』を流してしまう俺は多分ロートルなんですよね。分かった人もきっとロートル、あるいは葉信者。
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しかしまあ用語の規定も主観の排除もせずに「いわゆる」を多用してる時点で上記の主張は場末の飲み屋で酔っ払いが管巻いてるのと同じレベルだよなあとは思う。便利だよ「いわゆる」。
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