評価:☆☆★★★

この本、何がびっくりしたって目次の見出しから各章へジャンプできない。更に本文はメイリオでも使ってんのかってくらい行間がばっくり開いている。ほかに初出の人名に対する補足が無かったり、文中で明らかに別のパラグラフにリンク貼っておくべきところが抜けてたり……というか全文通じてリンク一切無かったりと素人が書いてんのかと訝ってしまうところだけど、内容は真っ当。ただ、図表が一切無いうえ地理的な説明も皆無。しかも一部の文章がwikiの表現に酷似してるのがやはり気になる。

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・匈奴による圧迫から鮮卑各部をまとめて強い部族に押し上げた檀石槐と、後漢で辺境統治に大功のあった張奐。
・張純の乱を平定した劉虞と、公孫瓚の仲違い。
・鮮卑で暮らしていた劉虞配下の閻柔による対公孫瓚の暗躍や、曹操による烏桓討伐の道案内をした田疇、鮮卑族を離間策や積極攻撃で翻弄した田豫という三国志おなじみの武将の活躍。

・歩度根が指導者になって勢いが衰えた鮮卑は新たに扶羅韓を立てたが、扶羅韓は部下を掌握できていなかったため軻比能に斬られその勢力を吸収された。歩度根と軻比能の仲はとにかく険悪になったものの、最終的には窮乏した歩度根が軻比能を頼っている(が、最終的にはその後の敗戦で軻比能に処断された)。
・その後も慕容(遼東)、宇文(慕容の西、幽州の北)、拓跋(宇文の西から涼州まで)、禿髪(名前が酷い。涼州)、吐谷渾(チベット北部)などの各部族が西普とやり合ったり部族同士でやりあったり五胡十六国に突入。
・鮮卑をはじめとした異民族の進出を許したのは、そもそも三国時代に漢人の人口が1/10になってしまい国境を守るのが難しかったという背景もある。

・まずは匈奴の血を引く劉淵が普から独立し、洛陽ついで長安を陥落させ普が滅亡、漢を名乗る→後に前趙。
・司馬睿が河南に逃れて東普を建てる。漢は慕容の協力を得ようとしたが慕容部の首領である慕容廆(ボヨウカイ)は普の臣下だという姿勢を崩さない。後継の慕容皝(ボヨウコウ)は三男だったが兄弟間の争いを制し前燕を建国、宇文を滅ぼす。
・ただ前燕も結局は後継者争いから前秦の英雄:符堅に滅ぼされる。河北を統一した符堅はその余勢を駆って、一人を除く周囲が猛反対する中で東普を飲み込まんと兵を挙げる。しかし淝水の戦い(合肥のあたり)で東普に破れた。
符堅は打倒した各部族を解体せず同化もさせなかったため烏合の衆だったとか。このあたりは彭城の戦いで劉邦の120万が項羽の3万に負けたのをなぞってる感ある。
・前燕の遺児であった慕容垂は符堅の東普攻撃に唯一理解を示した者だったが、内心は奢る符堅がしっぺ返しを食うことを期待していた。符堅の敗北に乗じて鄴を都に後燕として独立。せっかく前秦がまとめた鮮卑諸部族もまたバラバラに。

・独立した拓跋部の拓跋珪は北魏を建国し、内蒙古に勢力を拡大。後燕と対立し、最終的にこれを破って中原を制し皇帝を名乗る。鮮卑系王朝が長続きしないのは部族社会の風習を保ったまま国を統治しようとしたからだと、支配した部族を解散したうえで指導者層を都へ集めて貴族とし、皇帝への兵権集中を断行。
・後継者が夏、西秦、北燕、南燕などを打倒して「鮮卑系◯◯部」ではなく「鮮卑族」として河北を制したものの、統治のノウハウは貴族ではない漢人に優位があった。
・孝文帝の代で仏教→儒教への切り替えをはじめとした漢化政策を採用したことがきっかけで、鮮卑族のアイデンティティーを脅かされたと感じる層が猛反発し、再び動乱につながった。

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似たような名前の国が興亡しまくるうえに支配地域も広範に渡るから、覚えようと思うとやっぱり五胡十六国は無茶苦茶だ。どうでもいいけど本の感想ってある程度理解してなきゃ書けないんですよね。なんとかwikiを漁りまくって形にしたけど、この本読まなくてもwiki辿ってれば地図も適宜出てくるしそっちの方が良かった感は強い。

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