評価:☆☆☆☆★

3冊合わせて30分でわかる、とはいかないまでもエッセンスだけで淡々と纏まっているから読みやすい。ただ、基本的な流れが「建国→初代死亡→後継者争い→不満分子が首都を落として傀儡政権樹立→傀儡にとって代わって建国」ばっかりなのが本当に酷い。

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司馬炎死亡。西晋内で後継者争い、八王の乱が勃発。成都王に招かれた匈奴系の劉淵が後に蜀漢の後継者を自称し、「漢」として独立。西晋を滅ぼす。

西晋も滅んだし国名を「趙(前趙)」に変更。一方で、功が大きくなりすぎた羯族奴隷出身の実力者:石勒を危険視したため独立を招き、石勒は「後趙」を樹立。石勒は内外の戦に勝ちまくって後趙を滅ぼし河北をほぼ手中に収める。

石勒の死後、後継者争いを経て、息子の石虎が没すると後趙は分裂。有力武将の姚弋仲(ヨウヨクチュウ)は後趙に仕え続けたが、苻健は「前秦」を興す。

石勒の養子になっていた漢民族出身の冉閔(ゼンビン)が羯族を殺しまくって後趙滅亡。冉閔は「魏(冉魏とも)」を建国。

一方で西晋が滅んだ後、中原から離れた西涼の地には漢民族の張既が「前涼」として勢力を興した。この国、細やかな国家運営をする名君が何人も続いたかと思うとTHE・暗君が出てからお決まりの政争・暗殺・傀儡の流れで一気に滅亡するのが酷い。

ところで遼西方面の鮮卑系慕容部では代々東晋に対する臣下の礼を欠かさずにいたが、慕容皝(ボヨウコウ)の代で周辺の宇文部を倒して「燕(前燕)」を自称。慕容儁が後を継ぐと南下して冉閔の魏を滅ぼした。
が、慕容儁の死後、幼皇帝を補佐した慕容恪は、防衛に功のあった名将にして弟の慕容垂を危険視したため、慕容垂は勢力を拡大していた前秦へ出奔。

前秦は先述の石虎の死後に後趙から分裂した羝属が漢中あたりに建てた国。符堅の代に隆盛し、漢人宰相の王猛と組んで、漢人国家の前涼、慕容垂が逃げてきた前燕、ついでに鮮卑系の拓跋氏が代県あたりに建ててた「代」も併呑して河北統一。
イケイケドンドンで東晋にぶつかるも、淝水の戦いで東晋の謝玄に敗北。揚子江を挟んで対峙した両軍だったが、符堅は東晋が攻めてきたら引いて渡河中に反転して迎撃するつもりだった。が、各民族の寄せ集めだった前秦軍は整然とした後退ができず、東晋の先制攻撃されると後退命令が撤退命令に間違えられ、ついには潰走に至ってしまう。

符堅が失意に沈む中、いくつもの勢力が独立(何度目だ)する。慕容部の末裔として「後燕」を建てたのが前燕から逃げてきた慕容垂。後趙に仕えていた姚弋仲の息子:姚萇(ヨウチョウ)は「後秦」を建てて前秦を滅ぼす。拓跋氏も子孫の拓跋珪が代を復興、のちに国号を「魏(北魏)」とし、慕容垂の死で分裂した後燕を併呑。

後秦は後継者争いから弱体化しており、東晋の劉裕に滅ぼされる。このとき東晋は力に溢れ、洛陽・長安まで占拠していた。が、匈奴系の「夏」が興るとこれらの都市を取り戻す。滅んだ後秦は「西秦」として再興したが、北魏の3代目太武帝がこれらをまとめて飲み込んで河北を統一した。

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太武帝の次に権力を握った馮太后は三長制・均田制といった諸制度を整備して幼い孝文帝を支え、孝文帝も改名や漢民族の旧都である洛陽への遷都など徹底した漢化政策で諸民族の融和を図った。

都が平城(幽州とか并州とかあの辺)から洛陽に移されると、以前に首都周辺だった勢力は「北の国境警備」に成り下がってしまった。孝文帝が死ぬと彼らは反乱を起こし、朝廷内でも皇后の暗躍や幼帝の暗殺などゴタゴタが続いた。爾朱栄(ジシュエイ)→高歓と権力が移ったものの、高歓が建てた孝武帝は傀儡にされるを由とせず西の反高歓勢力:宇文泰を頼る。これに対抗して高歓は新たに皇帝を立て「東魏」、宇文泰-孝武帝側が「西魏」となる。

東魏は支配地域こそ西魏を圧倒していたが、胡族の武人勢力と漢人の文人勢力、成り上がりの商人勢力の争いから足並みが乱れ、高歓の子、高洋が帝位を簒奪して「北斉」を築く頃にはボロボロだった。
一方の西魏は西周時代の儀礼的・懐古的な制度に傾倒し、宇文泰の子:宇文覚が東魏よろしく帝位を簒奪して「北周」を築く。北周は名宰相:宇文護(宇文泰の甥)の元で国力を高めると北斉を倒して河北を再統一。しかし後継者が暗君だったため、宇文泰に従っていた楊忠の子:楊堅が北周を倒して「隋」を建国。ただ、この隋も宇文泰の配下であった李氏の血を引く李淵によって30年くらいで滅んでるんだよなあ……。

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視線を移して南朝。
漢(前趙)に滅ぼされた西普の生き残りである司馬睿が東晋を築くが、もともと呉の勢力圏で司馬氏は余所者。江南は豪族の力が強く、特に西の桓温は成都を落として四川省まで勢力を広げ、一時は洛陽まで我が物にし、このまま東晋を乗っ取ろうというところまで来た。この野望を挫いたのが文人宰相であった謝安で、前秦の符堅が南進した際も甥の謝玄を用いてこれを破っている。ただ、英雄が出てくると周囲がそれを排斥して暗君が国を傾ける流れは南朝も同じ。謝安が除かれ東晋が弱ったところで桓温の息子である桓玄が中央を押さえて「楚」を建国。ただこれは劉裕将軍があっという間に平らげると東晋を復興させ、符堅の前秦を滅ぼした後秦を倒すと自身が帝位に就き「宋(劉宋)」を建国。

ただこの国も3代目までは良かったものの、その後は暗君からの暗殺・粛清で一気に弱体化。国を憂えた蕭道成(ショウドウセイ)が国を立て直し、反対勢力を鎮圧し、最終的には自らが皇帝になって「斉(南斉)」を建てた。いや、憂国はどうした。

蕭道成は死に際し「宋は身内の争いから滅んだ。お前たちは一族助け合うのだぞ」と残したが、ダチョウ倶楽部かよってくらいのテンプレで暴君→粛清→暴君のスパイラルから蕭衍(ショウエン)が「梁」を建国。

蕭衍の治世前半は学問奨励と文化振興で国を栄えさせるも、晩年は仏教にハマって国が傾く。そして有名な宇宙大将軍:侯景が東魏から降伏してきた。これを受け入れたところ東魏との関係が悪化。慌てて東魏と和議を結ぶと、梯子を外された侯景はわずか1,000人で梁に反乱を興す。すると梁への不満分子を糾合して、首都:建康を包囲する頃には10万の軍勢になっていた。
侯景の乱は首都を奪い皇帝を殺したものの最終的には鎮圧された。しかし後継者争いで一部の皇族が北朝の西魏を招き入れてしまい、四川省をはじめとした要衝を西魏に奪われてしまう。梁の支配地域は全盛期の半分ほどにってしまった。

それでも後継者争いは止まず、有力武将の陳覇先がなんとか皇帝を立てたものの、やっぱり駄目だわと2年後には廃位して自らが「陳」を築く。
ちなみに西魏を招き入れた皇族はそのまま傀儡政権として「梁(後梁)」を存続させるが、用済みとなったら当然のごとく西魏→北周を継いだ隋に潰された。

尚、支配地域が大きく狭まったものの陳は4代目まで頑張って国力を高め、北斉の支配地域を切り取るなど健闘を見せた。ただ5代目が暗愚だったため、隋の楊堅が子の楊広(のちの煬帝)を大将として南征するとあっさり降伏。この5代目、隋へ移送されたあともあまりの無能さに呆れられ、猜疑心の強い楊堅でさえ警戒を解いてしまったために生涯を安全に全うしたという逸話がある。阿斗かよ。

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調べてみると、五胡十六国→北朝は色んな国が勃興しては民族間の争いで消えていき、前に滅んだ国の後継者が時を経て再興するみたいな流れがあってまだ大河ドラマ的な面白さがあるんだけど、南朝が本当に酷い。この時代、歴史マニア受けはしても漫画化とかは出来なさそうだなあ。

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